昭和40年10月18日 朝の御理解



 お道の信心を頂いて、お気付けも頂けんようになったらお終いだと。言う様な事を申されます。お道の信心をさせて頂いて、お気付けも頂けんようになったらお終いだと。ただ、お気付けを頂けれると言う事は、有り難いと言う事になる。けれどもここに一つ分からせて頂かなければならない事は、お気付けの頂き通しではいけないという事。そこんところを一つ分からなければならない。
 昨夜、休ませて頂く前に、お礼をさせてもらい、ある方の事がちょっと心に気にかかりますから、その事を改めてお願いさせて頂いたら、私、不思議にその、神経がこまいんです。ある方がちょっとした事をまあ、言うんですねえ。ちょっとした事を行うんです。それがその、行う事が言うておる事が、はあー信心しよってあげな事いいよってからと、信心しよってからあげな事してからと言った様なものが。
 ここのご信者さんの中にあると、それがとにかく気にかかる。そげな事いいよったらおかげを落とすがち。いうような事を聞いたらですね、私はもうだからそれが、休むまで心配、心にかかるんです。その事を私お詫びさせて頂いておりましたら、ご心眼にですね、「ごぼう」のね、それは、立派なゴボウなんです。大きな。そのゴボウがあの、とうがたつというですか、芽が出るですね。
 見掛は綺麗ですけれども、是が芽が大きく出て参りますと中には須がほげる。もうゴボウとしてのいわば値打ちがない。焚き物のごとなってしまう。私はその思うたんです。ごぼうといや、まあ長く苦労しておるとこう、長い修行をしておるとこう言う事。だからゴボウの様な信心修行をさせてもろうて、人が1年の修行ならば、やっぱり3年5年、人が3年5年の修行なら、こちらは10年でも20年でも、修行させてもろうて、その修行が大きければ大きいだけです、またお役に立つと言う事。
 そういうごぼうの様な修行でもさせてもらうと言う事はです、段々信心の徳が身について、いうなら日常生活の上にも、あのごぼうというのはなかなか使われる範囲が広い。御仏事ごとにも使われる。だしにはならん野菜。御祝儀事にも勿論なしにはならん野菜。というて毎日の弁当のおかずにでも中々いいという、日々の惣菜でもいいという野菜。そういうです、どう言う様な事にでも、御用にお使い回し出来れる様なそう言う様なおかげを頂くという事。そういうお徳を受けるという事。
 それで、尊いいわば長い修行をこさせて頂いているのだけれどもです、その尊い長い修行がです、お祝い事にも御仏事ごとにも日常のそれにも、使われずにですどうでしょう。芽が出てしもうたら。これはいくら長い尊い修行をしてもです、芽が出る様な修行じゃ詰らんと言う事です。何故私は芽が出てくるような事になってくるのかというと、そのことを私は今朝から思うて見た。
 そしたら神様からね差し引かれるという事。差し引かれるのじゃと。差し引かれるんです。だから今日はそこんところを皆さんに聞いてもらおうと思っているのです。お互いが本当にお粗末でありご無礼ばっかりを続けておることでございますけれどもです、ですからそういう、自分でもご無礼的がついておるような事を重ねて、ご無礼を致しておりますとです、お気付けを頂くのです。
 いうならば、差し引かれるのです。けれどもです、これがですよ、差し引かれる間はまだいいんです。この世で。はあお気付け頂いたと自分で気付いてもう次の改まりのおかげを頂きゃいいのです。けれども、馬鹿らしい話ではありますもんね。一万円なら一万円の給料というものがです、前借りばっかりしておるもんだけん。いよいよの時は差し引かれてから手のここには何にもないと言う事があるでしょうが。
 確かにこれだけの信心をさせてもらいよるのじゃけん、もう少しぐらいのこらにゃならんとに帳面のほうでは、いくらづつ黒字になっておるはずのが、月末に締めくくってみると赤字になっておる。
 いや、その、赤字になっとらんでも何にも残っとらんといったような事がございましょうが。いわば、確かに一万円がた働いたのに、反対に赤字になっておると云ったような事ではね、働きの楽しみがないじゃないですか。日々を有り難い勿体無い、日々が立ち行けば楽とこう仰るが、日々有り難い立ち行きが出来るという事。私いつも、原さんを例にとりますけれども、いつも、その、そういうもう実に実感的な日々の生活の中から、体験をお届けさせてもらうんですね。
 確かに信心をさせていなかった時には商売も確かにお洋服屋さんですが、繁昌しておりました。ところが信心をさせて頂くようになってから此の方、15年間、同業者が言われるのには、原さんあんたがたには、この頃仕事をあんまり、仕事がありよらんごたる風じゃが、どげな風かと言われるくらいにその仕事が少ない。いわば、(?)見えるわけなんだ。例えば、んなら、同じ同業の方が同じ善導寺の町にお洋服屋さんが心やすい方が何軒でもあるけれども。
 いわば、月に10着なら、10着のお洋服を縫われるのに原さんところは5着というわけなんです。ところがなら10着のほうば縫いよる人は、いつも借金で首が回らんごといつもある。ところが、5着であるところの原さんのお宅のほうは、おかげを頂いておられるという事実があるという事。しかもなら皆さんがご承知のようにです、神様への御用も一生懸命出来られる。
 さあ、それからというて子供達が次々と、そのまあお嫁にもやられましたのですけれどもです、その時ならその時なりに沢山いりゃ沢山。のお金ならお金のお繰り合せを頂いておられるという事実。これは例えば本当に億のつくような、仕事を例えばしておりましてもですよ、さあ、手形が落てんでもう四苦八苦してです、夜でも寝られんごたる生活をさせて頂いておるよりもです。
 私はこういう生き方があるならそういう生き方を私は頂かせてもらう。見習わせて貰う、それを自分に身につけていくと言う事は、私有り難いと思う。まあいうならば、その日暮らし、といえばよいけれども、その日その日をいわば有難く、なあにも差し引かれる事はなか。百円いる時は百円の働きを神様はちゃんと下さる。千円いる時にはちゃんと千円の、必要なだけのおかげを下さる。
 そしてそれがです、いつまでも現在、原さんだけではいきませんでしょう。それがだんだん、だんだん誰が見ても、立派なお店になってまいりましたり、仕事のほうになってまいりましたり、いわば千円のその日暮らし、一万円のその日暮らしが出来るようにでも、だんだんなっていかれなければならない事はもちろんのことです。確かにこれだけの働きをしておるのに、実際はあそこにひっかかりが出来たり。
 なんかで例えば月末に締め括りが出来ないと言う様な時にはです、これは確かに差し引かれておるという、おかげを頂かせてもろうてどこが差し引かれたのか、と言う事を検討していかねばならない。同時に差し引かれておっても、それ、気が付かん、それを横着に当たり前のように思うておる。お気付けを頂いても頂いてもです、私はそれを平気でやって行く、それでもやっぱり神様に願うからおかげを下さる、と致しましてもです、そう言う様な私はもう、いわば、お気付けが頂けんくらいになるという事。
 私は今日はお気付けを頂かんですむくらいなおかげを頂かなければならない。お気付けを頂くと言う事も、しかしまた有難いのだと。その人の信心にいわば、神様がまだ見所があるからお気付けを下さるのだと、だからおうらお前が一生懸命働きよるのじゃけれども、もうお前は前借をそがしこしておるから、お前に払とはないぞと。本当に前借をせんですむごたるおかげを頂かんならんといって、(?)そういう生き方と。
 そして同時にです、今度はもうこれはいくら気付けても、お気付をしてもです、いわば、それを平気でしておるというような、場合です、もうお気付けすらがなくなってくるという事です。横着な生活で終わらせてもらったらどういうようなことになるかということです。この世で差し引かれる分ならまだ有り難い。あの世で差し引かれる。ある時に、小倉の桂先生にです、神様が仰られたんです「桂松平、汝が信心の徳を身に受けて、願いにくる、信者のおかげの貸し付けをしておけ」と仰った。
 御ひれいのたつ教会の先生が非常に徳を受けられる、力を受けられる。ですから、さっさとその先生の信心によって、おかげを受ける訳なんです。おかげの貸し付けをどんどんされる。そして最後が、「この世で取れんときはあの世まで神が取り行ってやるから」と仰るそうです。あの氏子がおかげだけかって、借り逃げだけしとるような、信者のほうが多いです。この世でいわば氏子が払いができん時にはね、あの世までも神が取りにいってやると仰る。
 どうでしょう、あの世で神様から、借金とりに来られたらどういう惨めな事になるだろうかという事をいっちょ思うてみなければいけんです。お徳というのがあの世にも持っていかれるのならです、借金もひっかろうていかねばならないという事なのです。私は本当いうたら、信心はこの辺のところを分かる事が信心だと思うですね。この世でいくらお気付けをやっても、お気付けをしても。
 いわば気をつかんなら、というても、立ちゆきをしなければならんからおかげを下さっておるわけなんです。一生懸命金光様の信者といってから、やっぱりお願いもしよる、拝みもしよるもんじゃから。おかげは下さるんです。けれども、その、お気付けももう下さらんようになってからのおかげというのは、結局あの世で取りにこなければならんということをです、分からなければいけん。同時に私は、思うのです。
 ならお気付けを頂きよる間がよか時というごたるふうな、まあ考え方をせずにです、お気付けを頂いたら、すぐお気付けを頂いてすみませんというて、改まりの生活にならせてもろうて、お気付けが頂けんくらいなです、いわばおかげ。働いたら働いただけ、がばっと頂けるような信心です。いうならば、毎月毎月これだけづつ、銀行に預金出来るというような信心です。
 そういういう信心を愈々身につけて行かなければいけないと私は思うです。差し引かれる生活。それを私はお気付けの頂き続けの生活という風に私は思うのです。そして愈々そのお気付けもです、もうあれから取ろうと思うても取れん。神様この世では。だからそれは仕方ないというてから、お気付けも頂かんようになるけれどもです、あの世までも取りに行ってやると神様が仰る様な事になったら大変なんですから。
 おかげを頂かせてもらわなければなりません。
 折角これだけの信心をさせて頂いておる、折角これだけの信心をさせて頂いておるのがです、それが例えば一日なら一日、晩なら晩にガバーと差し引かれてしまうような、お粗末ご無礼な事をしたんじゃいけまいがという事なんです。今日はこういう風にして信心にならせて頂くぞ、今日も一つ信心にならせて下さいとこう、信心させて頂きよったらこげな事をいうて、信心させてもらいよってあんな事して、そげな事しよるなら又お気付けを頂かなならんがと、私は心配する。
 そう言う様な人がです、なら五年が十年、一生懸命な信心修行が出来ておってもです、成程ゴボウのような尊い修行をしておるけれどもです、人には言われん神様の前には、面を上げられんと言った様なで。お詫びしてもお詫びが叶わん様なです、お粗末ご無礼をです、神様が許されないこのことだけは許されんと言った様なお粗末ご無礼をしてからです、10年も経っても15年経ってもです。
 おかげの芽は出らずにです、いわば、ゴボウの芽どんが出るようなことになったんじゃ、その、長い苦労がです、焚き物のようになってしまうでしょうが。だから、すぐほげてしまうでしょうが。この、この尊い修行がです、どういうような事にでもお使い回し頂く事が出来れる、日々の信心生活も有難く出来れるという、修行のもとになるような、おかげを頂かなければならんと思うのです。
 どうでもひとつ、それは成程もう厳密に言えば、お粗末ご無礼ばっかりでございますけれどもです、これだけは神様が許しなさるはずがないといったようなです、お粗末ご無礼をです平気でしておるようなことがあっちゃならんということ。こげなことじゃいかん、こげなことじゃいかんと思いよるばってん、それを続けていきよるとです、終いには、お気付けもない事になってくるということ。
 そしてあの世までも借金取りに神様がこられなければならんような事は、そういう信心であってはならないという事。自分の言うておる事行うている事の中にです、そういう神様にがばっと差し引かれるような事を言う足り、行うたりしておるような事はなかろうか。今日はそういう事があってはならん。そう言う事を言うちゃならん、思うちゃならん。又行うちゃならんと言う様な、私は信心がなされなければならんと思うのですね。 
   どうぞ。